第28話  庄内竿は竹質で対象魚が変わる   平成26年03月01日

 完成した釣竿の長さ、堅さ、根元の太さなどで釣る対象魚が決まってくる。一般に長さ67mで根元が22.5cmの堅く強ければ細く長いタイ釣り竿と云われる。更に細身で弾性が強ければ黒鯛竿と呼ばれる対象となる。その他鱸竿、タナゴ竿、テンコ竿(メバル)、クロコ竿(メジナの子) 等と呼ばれる竿が出来上がる。それでも竿の調子は個人の好き好きもあるから、必ずしもこの竿が絶対だと云う対象魚となる物ではない。庄内竿は自然に生えている物を採って来るのであるからどれ一つとっても似ている物はあっても全く同じものは絶対にない。
 致道博物館に酒井忠宝公(14代当主)の無銘の愛竿がおいてある。同じ棚に並べられている根が岩で擦り減ってはいるが、上林義勝の名竿榧風呂(酒井忠良=16代が欲しがっていた竿であるが、酒井忠明公が五十嵐弥一郎氏から献上されて手に入れたと云う謂われのある四間一尺の鱸竿で、1尺2寸の黒鯛が釣れても、2尺4寸の鱸が釣れても同じように曲り、魚の取り込み後は直ぐに真直ぐになったと云う釣竿である。致道博物館で竿師丸山松治氏、水族館館長村上龍男氏の釣話で盛り上がった講習会に出席した時に、展示品の釣竿を振らさせて貰った事がある。実際それらの釣竿を手に持って振った見た感じでは、酒井忠宝の四間の鯛竿の方が出来は良かった。後で水族館の村上龍男氏と話し合ったが、奇しくも私と同じ意見であった。この竿で忠宝は明治16年笹川流れの脇坂村で一晩のうちに真鯛 21寸の真鯛、石鯛195分等をこの竿で釣り上げている。
 明治の頃まではハリスや道糸が蚕や山繭から糸を取って合わせたり紡いだりして、各自工夫して煎じたりして糸を丈夫にして使っている。そんな時代釣糸は、今のカーボン製の釣糸と比べる事は比べるまでもなく、非常に弱い物であった。糸の出し入れの出来ない難しい延竿の釣でそれをカバーするのは、切磋琢磨した技術と竿の長さであった。幕末の酒井藩の釣師が、三尺の真鯛を釣り上げたと云う話がある。又、明治に入ってからは、酒井忠宝公が明治00年に21寸の真鯛、195分の石鯛等の大魚を上げている。酒井家の人達だけでも酒井忠篤公明治14年真鯛二尺七寸五分、酒井忠良公大正12年真鯛二尺五寸五分と大正6年石鯛一尺八寸五分などがある。
 東京や他の地方の竿は、釣る魚によって竹を集めて一本の竿を作るのであるが、ここ庄内では出来上がった竿の竹質を見て釣る対象魚を決めるのである。一本の竹を使って竿を作ると云う事が、絶対的に他の地方との違いがそうさせているのである。それでも竹の林で竹を採取する時点で長年の経験があれば最終的な結論は出ない物の大体の判断は出来るようになるものだ。